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学芸員が語る志茂の歴史

2025年3月13日

「学芸員が語る志茂の歴史」掲載開始

今月から新しい企画である「学芸員が語る志茂の歴史」の掲載を始めます。

10回シリーズの第1回目は志茂の町の名前にちなむお話です。

この原稿は2024年1月に志茂四丁目会館完成記念講演会「志茂の歴史とまち歩き」の内容から書き下ろしたものです。

今回、講演会の資料をホームページに掲載することを快諾していただいた執筆者の北区飛鳥山博物館学芸員の山口隆太郎氏並びに田中葉子氏に改めてお礼申し上げます。

どうぞこれから「学芸員が語る志茂の歴史」シリーズをお楽しみいただければと思います。

2025年3月13日

「下」から「志茂」へ ―町の名前―

当ホームページでも紹介されていますが、志茂地区は、かつては音が同じ「しも」でも漢字が異なる「下村(しもむら)」でした。地名の由来が、昭和5年に刊行された「岩淵町郷土誌」に記載されています。

「これは至極簡単で、岩淵本宿の川下の村だから下村と呼んだと云ふ」(405頁)

岩淵本宿とは、現在の岩淵町。古くから、荒川を渡る地点として人の往来があった場所です。その岩淵宿から荒川を下ったところ、川下にあたる村だから、下村。なかなか明快ですね。

「下」の表記が「志茂」に変わったのは、昭和7年10月1日のことです。岩淵町と王子町とが合併して王子区が編成される際に、小字名の「志茂」を新町名とし、東京市王子区志茂町となりました。小字(こあざ)は、市町村の中の小区画ごとの呼び名です。

ところで、志茂4丁目の熊野神社の境内に、江戸時代に建立された冨士講の石碑が残っています。石碑の台石には横書きで「上村」と刻まれています。

え?江戸時代には下村だけじゃなく上村もあったの?そういえば小字に「加美(かみ)」もあった…。

いえいえ、台石の文字は右から読んで「村上(むらかみ)」。江戸時代の冨士信仰の一派「村上光清派」によって建てられた石碑で、碑の左側面には建立者として「武州豊島郡下村講中」と刻まれています。

                    (提供 北区立飛鳥山博物館)


嘉永二年(1849年)建立の石碑
嘉永二年(1849年)建立の石碑


建立者 武州豊嶋郡下村講中
建立者 武州豊嶋郡下村講中



左から読むと「上村」になる
左から読むと「上村」になる

2026年1月13日

桃太郎の鬼退治 ―熊野神社の白酒祭―

志茂 4 丁目の熊野神社では、毎年 2 月 7 日午前 11 時頃から「白酒祭(しろざけまつり)」が催されます。明治時代までは、正月7日に行われていました。もともとは下村の年番(地域で協力しておこなう行事などの当番役)の交替が行われる村方の祭事であったものが、昭和 7 年頃に熊野神社の年中行事となったものです。

白酒祭の大きな見どころが、弓射りです。地面に立って的を射る行事で、民俗学ではオビシャと呼ばれます。白酒祭のオビシャでは、かつては桃の枝を削って手作りした弓を使い、一間四方の「鬼」と書かれた的を狙います。桃の弓で鬼を射倒す。まるで、とある昔話のようですね。

射手は3本の矢を射ますが、最初の1本は「捨て矢」としてわざと的に当てないようにし、2本目と3本目の矢で的を狙います。かつて正月 7 日に祭を行っていた頃は、日の出に合わせて、太陽にむかって最初の矢を放ちました。太陽を射る、つまり太陽を再生させることによってその年の五穀豊穣を願い、鬼を射ることで村内無事を祈願したと考えられます。

現在は、都内でも珍しい行事となったオビシャです。平成 14年には北区の指定無形民俗文化財に指定されました。機会がありましたらぜひご覧ください。



     
     

     
     
     
     
     
     

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